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RE: クソコードと呼ばない

例えソレがそうであってもソレを口にするとネガティブが蔓延する。思ってもイイ、でも言ってしまってはならない。

ホントそれ。びっくりするほど簡単に場を汚染してしまうので、意識的に避けている。


さて、昨年末に公開されたこの記事

2ページ目で自分に言及があり、

「悪いことを言わない」という前向きな思想が彼にはあるんだろうね。ネガティブなことを口に出してしまうと「言霊(ことだま)」となって固定されてしまうと考えているんだね。

という評価をいただいた。

「悪いこと」ワードを発する事によって、雰囲気を悪くしてしまうのを恐れている。場を悪い方に倒してしまうことを強く恐れている。

どんなものであれ物事は放っておくと悪化して行く。滅び方向に向かっていく。 それを食い止めて自分たちの望む方向に持っていく活動を環境面であれ技術面であれ行っているわけだが、わざわざ悪化させる必要なんて無い。非常にシンプルなことだ。

もちろんくそコードと言う事に三分の理はある。鬱憤ばらしにもなるし、そこに対処しなくちゃいけないものがあるのを示すことはできる。 でも鬱憤ばらしは他にも方法があるし、対処しなくちゃならないことを示すやり方もたくさんある。 何もくそコードと喚く必要なんてないんだ。


そういえば、「クソをクソと言える」という言葉は、文字通りに受け取ってはならない比喩表現だと思っている。そのままの通り振る舞うのは難易度が高すぎるのだ。

なぜなら、大前提として、作り手と作ったものを切り離すことを全員が意識する必要があるが、これは強者の言い分であって、誰しもができるわけではないからだ。

どうしても、作ったものには思入れができる。例えば「コードの共同所有」という言葉を使わなくていいようになって久しいが、自分が作ったものや改修したところは思入れができる。作ったものが責められると作り手が責められる気がしてくる。 そこに書いたコードは我が思考の成果であり、責任感が生まれる部分でもある。それが責められていると感じたとき、本当に虚心坦懐でいられるだろうか。

まして、git blameとかで誰がいつ書いたものかを追跡されて、原因究明される。また説明責任も果たしたくもなるだろう。 そんな状況で、自分が携わったものがクソと言われたら到底ポジティブな気分にはならない。責められるという逆のインセンティブから何があっても遠ざかろうとするだろう。

その結果起きるのは、停滞、顔色読み、過度の根回し、モチベーション減、などなど、いい事は何も無い。

思わしくないことを変えていける事はもちろん重要だ。だがそれはクソをクソと言うことでは断じてない。声を上げる事は必要になるかもしれないが、そもそも指摘する事自体は何も価値を生み出していない。どれだけ容易かつ俊敏に直していけるかとその結果こそが価値になるのだ。そこにフォーカスすると自ずと取るべき行動は見えてくる。